契約壇の石塔 keiyakudannosekitou
永正6年(1051)奥州出羽の領主安倍頼時朝廷の北進に反抗したため、鎮守府将軍八幡太郎義家父子(ちんじゅふしょうぐんはちまんたろうよしいえふし)により鎮圧された(前九年の役)安部一族の渡会弥三郎明宣(あきのぶ)は平方城に居城していたが、落城のため弥三郎は生き残った武士達と御家再興(おいえさいこう)を祈願したが、後に弥三郎病死のためその夢破れ60余名の家来武士たちは、主君の墓前にて自害した。この場所が契約壇である。爾来無縁仏(じらいむえんぼとけ)となっており霊魂成仏(れいこんじょうぶつ)できるよう壱塔を建立したものである。